2022年1月25日火曜日

オマール海老のポワレ ‐いじめを添えて‐ 前半

  この最後の壁を乗り越えれば、僕の人生は終わる。

「やっと終わらせることができるのだ」と思うと、なんだかおかしなことにウキウキとした気分になった。これから死のうというのに、口元が笑っているのが分かる。

それほどまでに辛く長い、ほんの二十数年あまりの人生だった。

 僕は今、ある商業施設の屋上の柵の向こう側、壁の縁に立っている。靴のつま先の下には、人や車が豆粒ほどに見える。

ほんの一歩、一歩踏み出せばそれでいいのだ。「飛べ!」と自分を叱咤激励する。この場合、叱咤激励という言葉が正しいかどうかは分からない。ただ自分を鼓舞するという意味では正しいのかもしれない。

今までいろんなことに耐えて来たじゃないか。これ以上お待たせすることは、せっかく自分のために、交通整理をしてくれている警察の方に申し訳ない。

高さ四十メートル、十二階建てのビルから飛び降りて、下を通る方を巻き添えにしたら親御さんやご友人に顔向けできない。

よしんば自分が生き残る等ということがあってはならない。身長こそ一般男性にしては低い方だが、体重が百キロ近くある。落下距離が四十メートルだから、落下速度は毎秒、約二十八メートル、約時速、百キロ近くでぶつかることとなる。僕はv=ルート2ghの法則を一瞬で計算し、百キロの巨漢が百キロでぶつかるこの偶然を楽しんだ。

下で交通整理している警察の方は、冷めた目で僕を見ている。

「早く飛び降りろよ。こちらは忙しいのだよ。」と思っているのだろう。

 

ああ、こんな僕のために、貴重な時間を割いていただいている。ありがたくて涙が出そうだ。

立ち入り禁止テープの向こうでは、騒ぎを聞きつけた野次馬の方々が集まり始めている。少しでも前で見物しようとして、テープを跨ごうとする人混みを警棒やホイッスルで抑えている。

人々は僕に焦点を合わせ、しきりにウインクをしている。自殺を止めようとしているのではない。最近では、コンタクトレンズにカメラ機能を搭載しているものが増えてきている。片目をウインクするようにシャッターをきれば、そのままクラウドにデータが送られるという仕組みだ。

最初の頃は目に悪いだの、失明の危険が等と専門家が渋い顔だのと話しをしていたが、便利なものを一度使用してしまうと、人間は過去へは戻れないものらしい。

 

思えば儚い人生だった。

子供の頃は醜い顔のせいで不細工だの、フランケンだのと同級生からかわれた。そして僕は、それを笑いに変える能力も機転も持ち合わせておらず、卑屈に作り笑いを浮かべるのが精一杯だった。

そんな態度は、同級生たちのいじめを増長させた。カバン持ちをさせられる、囲まれて頭や身体を小突かれる、トイレで水をかけられる。学校帰りにコンビニでお菓子やファストフードをおごらされる。

でもそれはまだマシな方だった。小突かれたり、おごらされたりする間は、自分を彼らの子分だと納得させることで自尊心を保っていられた。下っ端ではあるが仲間の一員と周囲から見られていた。

しかし、それはある日突然始まった。無視、

昔風に言えば村八分だ。前者が肉体的いじめであれば、後者は精神的いじめである。

 その日学校に行くと、クラス全員が口をきいてくれなくなった。昨日までは「よう、フランケン。今朝も相変わらず不細工だな。今日もまた帰りにゲーセンでも行って、菓子でも食おうぜ。(勿論、お前の金で)。」等と声をかけてくれたボスもただニヤニヤと笑いながら僕を眺めている。

 席に着こうとした時、衝撃が走った。机の上には「死ね・きもい・くさい」等という言葉が書かれており、机の中にはカビの生えたパンが押し込まれていた。涙をこらえながらカビの生えたパンをゴミ箱に捨て、机の上の文字を消していると、先生が入ってきてたった一言こう言った。

「早く席に着け。授業開始のチャイムが聞こえなかったのか?」

徹底的にいじめの事実を彼の中で封印した。

それから毎日タブレットのチャットには例の言葉が送られてくるようになった。匿名で送られてくるので、誰が送っているかは僕からは分からない。分からないだけに怖かった。言葉が送られてくるたびに、頭の芯が痛くなり、嘔吐感や眩暈におそわれた。背中にはビッショリと汗をかき、震えが止まらなくなった。その姿はいじめをする側を喜ばせたに違いない。

冷静に考えれば、そんなことをするのは一部の同級生に限られており、後は傍観者である。いじめもしない代わりに助けもしない。もし助けたりしたら、自分もいじめの対象になるそれだけは避けたい輩だ。

 ただ相手が分からないだけに、僕はクラス、いや学校中の生徒や先生までも、自分のことを嫌っていると思い込んでしまった。

 認知のゆがみだ。しかし、その時の自分にはそれが正常であり日常だった。

このストレスは僕を過食へと走らせた。何か口に入れて食べている間だけは身体がリラックスし、いじめを忘れることができた。食べるという行為は副交感神経を優位にし、筋肉を緩ませる効果がある。が、食べ過ぎたことへの自己嫌悪感は食べ終わった直後から襲ってくる。吐き戻そうとするのだが、うまくはいかず、僕はほんの数秒の恍惚感を得るために、次から次へと食べ物を口の中に押し込んだ。自然と涙が溢れて止まらないまま、口の中のものを喉へと流し込んでいった。

 結果、僕は百キロを超す巨漢となった。それが同級生の格好の餌食となり、やっとのことで進学した高校も登校することができず、そのまま自宅の部屋で引き籠る日々が続き、昼夜は逆転した。

引き籠りの中にはゲームに明け暮れる人もいると聞くが、僕にはそんな勇気はなかった。ネットの世界でも自分を否定されるのではないかと、ただただ毛布に包まって恐怖に怯えていた。

本当にそうだったのだろうか?と、ふと思う。 

家は貧乏で、ゲームに対応できるタブレットやネット環境を維持することが不可能だったのではないか。否、そもそも僕の両親はどうしていたのだろう? その辺りになると記憶が曖昧でよく思い出せない。そもそも僕に両親等いたことがあっただろうか?

結局僕は不登校のまま暗い部屋で二年間を過ごし、高校を中退した。

 

社会人になればいじめもなくなるだろうという楽観は入社直後から裏切られることとなる。会社でのいじめは、学生時代よりも、もっと功名で陰湿だった。

勿論チャット等に悪口を書き込み、証拠を残すはずもない。学生の時は見逃してもらえたことも社会人となれば、会社のコンプライアンス部が黙ってはいない。

怒鳴ればパワハラ。性的嫌がらせはセクハラ。職場教育をなおざりにすればモラハラ。等は有名なところだが、年齢やジェンダーで差別をすればエイハラやジェンハラ。技術的に秀でているものがそうでないものを見下した態度をとれば、テクハラ。果ては、酔って相手に迷惑をかければ、アルハラ。タバコを吸えば、スモハラ。カラオケ強要はカラハラ等々。ハラハラハラハラと、いやはや住みにくい世の中になったものである。

そんな網の目を潜り抜けてまで、いじめる対象を探すのだから人間というものはどこまで意地の悪い生き物なのだろう。

「君のためだよ。君のことを思うからこそ」

社会人のいじめは大抵この言葉で始まる。君のためだと言いながら、こなしきれないほどの仕事を押し付ける。自分の仕事を丸投げしてくる。ミスをするのを手ぐすね引いて待っている。そして「君にために注意をしているのだよ。」と長いお説教が始まる。タメハラという言葉もすぐに出てくるかもしれない。

 残業が増え、ミスを重ねるほど任せられる仕事は単純作業へとなっていく。自己決定範囲が小さくかつ自己許容範囲を超えた仕事は、たびたび人を「うつ病」にする。

 その昔、「うつ病」は心の病とされてきた。今では脳の病となっている。実際残業が増え、一日四時間程度の睡眠が一週間続くとホルモンや血糖値に異常が生じ、四時間から六時間の睡眠を二週間継続すると、認知、記憶、問題処理能力等の高次精神機能は二日間眠っていない人と同等程度まで低下すると言われている。

案の定、社会人としての生活は僕に強いストレスを与えた。ストレスは大脳皮質で評価され、感情の中枢の大脳辺縁系に伝達、僕の中で強い不安や悲しみを引き起こした。その刺激は自律神経、内分泌、免疫系等を司る視床下部へ伝わり、頭痛や下痢といった体調不良に見舞われ、会社に出勤することができなくなった。

 誰もいないのに「悪口」が聞こえ、電車の中では、心臓が飛び出て死んでしまうのはないかと思うぐらいに鼓動が早くなる。その頃の僕は「統合失調症」や「パニック障害」患っていた。

悲しいぐらいに何を見ても、何を食べても、何処に行っても感情が動かなくなっていった。「苦しみ」のみが、心臓を、脳を、手足を、身体の中心を痛めつける。痛みで、もう涙も出ない。

 そして僕は決意した。もうこんな人生は終わらせてしまおうと。それがこの屋上の縁に立つまでの僕の人生だ。

 

ああ! でも、いじめるという行為には快感を伴うのは何故だろう。最初は罪の意識を感じても、相手が黙っているとそれでいいと思ってしまう。やがてそれが楽しくなる。絶対に反抗してこない相手には優越感が生じる。歓楽に変わる。

身体の底から湧き上がる高揚感。相手が痛がれば痛がるほど、泣けば泣くほどに込み上げる興奮。

やがて行為はエスカレートする。更なる悦楽を求めて。

こんなことはいけない。止めなければ。と心の中では思っている。思っているのに止められない。理性ではもう、強いエクスタシーを求める肉体に、感情に、抗うことはできない。知っている。自分は病んでいるのだ。 

 

ん?何かがおかしい。この記憶はいったい誰の記憶だ? 僕はいじめ等、したこともない。いつもいじめられる方だったじゃないか。なのに、なんだ?この感情は?

だいたい変だ。何故、四十メートルも上から下で交通整理をしている警察や、夢中でシャッターを切っている人の顔が見える? 何故みんな無表情なのだ? 何故誰も止めにこない? 親の記憶もない。先ほどの落下速度の計算はなんだ? なぜそんな事ができる?辻褄が合わないことばかりだ。

 

俺は本当に死ぬべき人間なのかー

そう思って下を見た時、目が眩んだ。

「しまった!」

俺はつるりと足を滑らせた。


後半はこちら オマール海老のポワレ ‐いじめを添えて‐ 後半


#小説 #いじめ 


 ©Mutsuki2022

オマール海老のポワレ ‐いじめを添えて‐ 後半

地面に落下するまで、空気抵抗を考えなければ、約二・八秒。俺の頭脳は、とっさにt=ルートg分の2hの計算結果をたたき出した。

そうだ俺は頭脳明晰で容姿端麗。薔薇色の勝ち組ではなかったか? 

落下までのたった二・八秒の間に別の人間の記憶が蘇る。これは願望なのか。

否、願望ではない。本当の俺だ。

俺はいつでも人気者で、クラスの中心的人物。明るくて誰にでも好かれ、トップクラスで大学を卒業後、指折りの企業で将来を約束されたー

コンクリートの地面の上に、俺は彼を見た。いつも俺にいじめられて、ついには学校へ来られなくなってしまった彼。

実際に見たのか、残像なのかは分からない。

「ごめんな」

俺もみんなの期待に応える事にいっぱいいっぱいだったのだ。ストレスを発散の的にして本当にごめん…

 

地面が迫ってきて、身体が叩きつけられる寸前で、ビービーとビープ音が鳴った。

 

 自殺未遂・反省・謝罪あり。VRを操作していたAIはその項目にチェックを入れた。

 

 西暦二千三十年、十代から二十代のいじめによると認定された自殺数は年間六千人を上回り、少子高齢化が進む中、国家を揺るがす大問題へと発展した。国会では「いじめによる自殺者0」を目標に掲げた法案が整備され、

「いじめ防止対策庁」という、名前そのままの庁が作られた。何から手をつけてよいかまったく分からない、初代大臣は今から十年ほど前、二千二十一年に肝いりで発足された「デジタル庁」と手を組んだ。

人工知能とバーチャル・リアリティによる、「いじめられ体験」である。AIにありとあらゆるいじめパターンデータを学習させ、それをVRに投影することで『いじめられ体験』をしてもらい、いじめをなくそうという御上独特のあさはかな考えである。

『いじめられ体験』被験者数一万人。

体験による自殺選択数、七千百九十二名。他への危害・殺人選択数、一千九百九十六名。自殺未遂数、六百八十三名、他・精神障害等、百二十九名。

内、反省の弁を述べたもの二百五十七名


報告を受けた『いじめ防止対策大臣』は苦い顔をした。

「何十億という予算をかけて、反省の弁を述べたものはたった二・五パーセントだというのか!」

大臣は報告書を壁に投げつけた。

「はい、被験者数一万人。約七十%が自殺を選び、殺人及び殺人未遂が約二十%、途中で気付いて自殺未遂は約七%という結果…」

「もうよい!」

「となり、反省数は二・五七%となります」

人工知能の秘書、ハルはそう続けた。

「この企画は失敗だな」

「被験者は一万人、結果が出ておりますので失敗である意味は分かりかねますが、大臣がそうおっしゃるのであれば、失敗なのでしょう」

ハルには忖度機能が備わっている。使用する側を思いやる心と言えば聞こえはいいが、つまりは使用者を怒らせないように学習させているだけだ。

「私はいじめなぞしたこともなければ、いじめられたこともない。その私がどうして『いじめ防止対策庁』の大臣等を努めなければならないのか」

大臣は嘆いた。

「いじめをした方は大抵がいじめをしたという自覚はございません。ですから、いじめられ体験から反省の弁を引き出すのは難しいかと存じます」

ハルの小さい声は、ハル自身からの大臣への昼食の時間を告げる音楽機能にかき消された。

 

トントンとノックの音が聞こえ、コックコートを纏った料理長がワゴンを押して入ってきた。

皿の上にはホタテとエビがバランスよく置かれ、周辺には季節の野菜が見事なぐらいに綺麗に盛り付けられている。素晴らしく良い香りだ。

先程までの不機嫌顔はどこへやら、大臣は上機嫌でエビをカットすると口へと運んだ。

「まずい!!」と顔をしかめ、料理長に向かって「これは何だ?」と聞いた。それには何だというより、何のつもりだというニュアンスの方が強かった。目利きで、腕も抜群の料理長がこんな不味くエビを仕上げるとは、にわかに信じ難い。

「オマール海老のポワレ」でございます。料理長は涼しい顔で答えた。

「それは見れば分かる。私の好物だ。だが、いったいどうしたというのだ。この味の悪さは?身はパサパサだし、ソースの味で胡麻化してはいるが、俄かに生臭い」

「はい、本日は少し趣向を変えまして、『オマール海老のポワレ、いじめを添えて』で、ございます」

「い? いじめを添えて?」

「エビも仲間からいじめを受けます。大抵は縄張り争いであったり、餌の取り合いであったりですが、中には理由は分かりませんが必要以上のいじめを受けるものがおります。強いストレスを感じると、エビの中枢神経から人のコルチゾールと同等のストレスホルモンを体内に放出するのです。すると、身は固くなり、生臭くなります。中には、ストレスが高じると自分で自分のひげや肢を切ったりするものも現れます」

「なんでそんなエビを私に?」

「大臣が前にこうおっしゃっていたことを聞いたもので。『私はいじめというものが分からない。一度いじめというものを味わってみたいものだ』と」

「いじめというのは、こういう味がするものなのか…」

「ちなみに、必要以上のいじめはどういうわけか、豊かな土壌、つまり平和で餌の心配がないところで頻繁に起こるのだそうです」

「なるほど。戦後、我が国も平和で豊かになった。 AIに頼らず、人間として考えろということだな」

「私には難しいことは分かりません。ただ大臣の問題解決にお役に立てればと思った次第で」料理長は深々と頭をさげた。

「ありがとう」大臣は微笑んだ。

「大臣、がんばってください」というハルの言葉はまた、次の会議を知らせる音楽にかき消された。


前半はこちら オマール海老のポワレ ‐いじめを添えて‐ 前半


#小説 #いじめ 

 ©Mutsuki2022

オマール海老のポワレ ‐いじめを添えて‐ 前半

  この最後の壁を乗り越えれば、僕の人生は終わる。 「やっと終わらせることができるのだ」と思うと、なんだかおかしなことにウキウキとした気分になった。これから死のうというのに、口元が笑っているのが分かる。 それほどまでに辛く長い、ほんの二十数年あまりの人生だった。  僕は今...